對潮楼本堂福禅寺と第62代村上天皇

 福禅寺は平安中期に創建されたと伝えられる古刹と言われています。天台宗として開山し真言宗として改宗し今日に至っています。(客殿、對潮楼は元禄年間1690年頃の創建)

 密教寺院として平安期の仏像、本尊千手観音立像などの鎌倉期の仏像、室町期の仏像、江戸期の仏像などそれぞれの仏像が祀られており、あつい観音信仰を集めた霊験あらたかな寺院です。

 本尊千手観音は海中出現の随瑞像也「信心の輩・海上安全事殊に女人安産を守らせ」と鎌倉時代以降殊に江戸時代には海上安全と安産の観音として崇拝されていました。

 

 

              

 

 

平安中期、備後の国は沼隈郡赤坂(赤坂村長者ヶ原)に新庄太郎と云う長者おり田畑山林の地主となるに仁徳に篤く二男二女があり、その子明子は成長するに従い管弦歌舞に秀でており文筆、和歌の道にも通じていたのです。また、とても美しく賢明な女性でした。

 このうわさが村上天皇の耳に達し、天皇は妃の一人として迎えたいと望まれました。

勅を承り親族相会して行装を整えました。京都への旅立ちの日、金銀宝玉の具美を尽くして女官従者は100人にも及びました。

 慶和二年冬、明子姫は御子(皇太子)を生みました。明子姫は日頃から千手観音を信仰していました。そのため生まれた故郷に千手観音を祀る寺を建てたいと思い立ちました。天皇はこの望みを聞き入れられ、勅使が六波羅の紫雲山へ行かれてから、醍醐天皇の第二王子、空也上人が呼ばれました。

 

「寺を建てる目的は三つある。まず世の安泰を祈願する。つぎに世の女性の安産を願う。三つ目は明子の父母、祖先の御霊の安らぎを願うこと」

空也上人は勅命により備後の国に下り長者と共に勝地を探り、皇妃明子姫の里に近い絶景の地則と自然の美観に調和した鞆の津を選ばれ、慶和三年(963)秋に観音堂を建立しました。(後の福禅寺)

 

 

 

空也上人(弘也ともいう 903~972)

二十代の頃、尾張国の国分寺で頭を剃り空也と称した。天台宗の本山、比叡山で修業しました。そして、全国の霊場や名山をめぐるだけでなく、危険な道を改修したり、水のない村には井戸を掘ったり、野に死骸あれば、一か所に集めて火葬にするといった、社会奉仕を行いました。旅の間中休むこともなく「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて歩いたので、「阿弥陀聖」とも呼ばれました。

大衆的運動のさきがけとなった念仏は広く大衆に浸透し念仏を歌いながら踊るという「踊り念仏」も生まれました。後に、念仏系の浄土宗や浄土真宗などは、空也上人が広めた念仏の普及によって初めて生まれたといえます。