對潮楼と朝鮮通信使

 對潮楼は、福禅寺の客殿として元禄七年(1694)に建立されました。平成六年(1994)には、通信使が訪れた当時の建物やゆかりの文物が特によく保存されているということで「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されました。同時に指定されたのが岡山県瀬戸内市の

「牛窓本蓮寺境内」と静岡市清水区の「興津清見寺境内」です。

朝鮮通信使の通信とは「信(よしみ)を通わせあう」という意味で、日朝両国が「互いに欺かず争わず真実を以って誠信の友好を築き、それに

よって江戸時代の200年以上に及ぶ平和な外交関係が維持できたのです。鎖国と言われた時代に朝鮮王朝は日本が唯一正式な国交を結んだ国でも

ありました。

 通信使は朝鮮国の都、漢城(ハンソン)から江戸まで約2000Kmの道のりを5、6隻の船に分乗した400人から500人の大使節団でした。その護衛には対馬藩が50隻の船で付き添い、接待する藩の送迎船は200以上仕立てられ総勢300隻にも達する大船団が瀬戸内海を往来しました。使節のメンバーはもちろん政治家がいましたが、当時の朝鮮王朝から選び抜かれた多くの文化人を擁した文化使節団でもあり、日本の文化人との交流が盛んに行われました。

 鞆の浦には通信使一行500人に対馬藩の護衛が500人、さらに藩の接待役が1000人で総計2000人もの人たちが滞在し狭い鞆の町はごった返しました。宿泊と食事の接待には莫大な経費がかかりましたが、幕府の威信をかけての大イベントでしたから福山藩も藩を挙げて歓待しました。「寺は高い崖の上に海を臨んで建っている。島々は大小遠近さまざまに並び地勢奇しく絶景これに勝るものはない。」とすでにここからの眺めを絶賛しています。

 第4回、寛永13年(1636)の朝鮮通信使は初めて観音寺と呼ばれた現在の福禅寺に宿泊し、以後上官三使、正使、副使、従事官の常宿となりました。

 第5回の通信使は寛永20年(1643)来聘で福禅寺に館舎を定めました。

 第8回の朝鮮通信使は「日東第一形勝」で有名です。

正徳元年(1711)に福禅寺客殿に宿泊した一行は対馬から江戸まででここからの景色が最も優れているとして従事官李邦彦(イバンホン)が

「日東第一形勝」の書を残しました。この時上官三使はそれぞれ五言律詩を詠みその書を残しています。この書は2017年10月ユネスコ世界記憶

遺産として登録されました。文化9年(1812)鞆の商人によって木額に仕立てられここ對潮楼に現在も掲げられています。

 

 

 

 

日東第一形勝

五言律詩

第10回の通信使は延享5年(1748)に来日し4月14日に鞆の浦に寄港しました。この時福山藩主阿部正福は大坂城代を務めていたため、宇和島藩・豊後日田の代官・越前の代官の三者が幕府から接待役を命じられていました。ところが、上官三使が福禅寺を常泊していたことを知らなかったのか、阿弥陀寺に宿泊を定めてしまいます。そこで重大な事件が起こりました。三使は従者から「ここは福禅寺にあらず」と告げられると「なぜ福禅寺を宿舎にしなかったのか」と日本側に詰め寄ります。そこで「福禅寺は焼失したので阿弥陀寺を宿舎にした」と苦しい言い訳をしたためますます三使を怒らせてしまいます。ついには「福禅寺は日本第一の勝景なりその佳境を眺望したいという外国からの使節を欺くのか。」と激怒し夕食もとらず船に帰ってしまったというのです。

 復路では福禅寺に入り美しい景観を愛した正使 洪啓禧(ホンケヒ)は客殿を「對潮楼」と命名し、その子供で若干22歳の書家洪啓海(ホンキョンヘ)は雄渾の書を残しました。当時、藩主 阿部正福は書を木額に仕立てました。その額が現在も對潮楼の正面に掲げてあります。この書は2017年10月ユネスコ世界記憶遺産に登録されました。