對潮楼と龍馬

 坂本龍馬いろは丸と紀州明光丸との衝突の舞台となったのが鞆の津沖、広島県走島より東南・岡山県六島、広島県宇治島沖でした。その事件の鞆での第3回目の談判交渉場所となったのが對潮楼です。

 いろは丸(100t)は大洲藩所有の機帆船であるが、これを坂本龍馬が15日間の約束で借り受け海援隊の初航海として慶応3年(1867)4月19日長崎を出航した。お龍(龍馬の妻)のいる下関に寄港することもなく大坂に向けて順調に航海していた。

 4月23日午後11時頃 備後灘の岡山県六島沖にさしかかったところ、紀州から長崎に向け航行中の徳川御三家紀州藩の明光丸(887t)と衝突事故を起こす。

 右舷機関室あたりに衝突されたいろは丸は大破して航行不能となり、明光丸に曳航されて鞆の津に向かうが、その途中の翌日4月24日午前4時頃広島県宇治島沖4kmの地点で沈没する。乗組員32人(使船

人男女13人含む)は、明光丸に乗り移り午前6時ごろ鞆の港にたどり着く。

 鞆に着くと直ちに談判が開始されて最終日に談判を行ったのが福禅寺の客殿「對潮楼」です。本堂は平安時代第62代村上天皇創建の勅願寺、客殿は江戸時代朝鮮通信使が絶賛し「日東第一形勝」と称した。格式が高いため最終局面に用いられたと思われる。それまでの交渉は龍馬は変名「才谷梅太郎」としていたが、この對潮楼では海援隊長坂本龍馬の名札を渡して交渉に臨んでいる。

 しかし、鞆での談判は決着がつかず明光丸は藩命で急ぐとの理由で4月27日に出航し談判の舞台は長崎に移される。日本初の機帆船による海難事故であった。